スタートページ主張・講演マーフィーの法則(Vol.3)

Murphyology by a retired
政治・経済

本ページの性格に関しては、こちらを参考にしてください


前提

社会から遠ざかると、社会、特に政治を論じるようになる。

一般に高齢者は、毎日が退屈で、身体的・精神的な苦痛をもつ。それを自己責任ではないと逃避するために被害者意識をもつ。
家族や知人など身近な対象をやり玉にあげるのは問題が多い。それに対して、政治や経済のせいだとするのが最も安全だ。
しかも、政権中枢のスキャンダルは多くの高齢者が共有しており、話題として恰好である。
幸いわが国では、政権批判の自由は保証されているし、深刻な分断社会でもない。互いに相手が政治関係者ではないと知っている仲間内では、他愛もない政治談議が友人関係を損ねるリスクが少なく、場を盛り上げられる分野だ。

老人は政治に口を出すな(権限=責任 一致の原則)

気の置けない仲間内での放談はよいが、公的な行動となると事情が変わる。
国政選挙では、高齢者率および投票率が高く、政党・候補者にとって重要な票田であり、その意見に応じる(ように見せる)ことが不可欠である。
平均年齢が伸びたとはいえ、高齢者の余命は若年者よりも短い。投票には、その結果に責任があるが、高齢者は死後の結果に対する責任はとれない。

投票による果実は生存中に享受したい誘惑がある。それで、高齢者の価値判断は「明日の百より今日の五十」になりやすい。
老人が政治に口出しするのは無責任であり、長期的視野にたつべき国家運営を妨げることになる。

逆に、国の将来を決定するはずの若年者層は少子化が進み投票率は低い。すなわち、全体における若年者層の意見の比率は非常に小さい。
それを嘆く良心的な老人は、積極的に棄権して、実質的に若年者層の意見の比率を高めることになる。

政府が「国民全体」というとき、自分たちは国民ではない。

野党が「世論」というとき、その党内あるいは発言者の個人的意見である。

コロナ対策で会合自粛を呼びかけるが、自分たちは料亭で談合している。
与野党ともに、議員の歳費や手当の削減には消極的になる。

以下、純粋な科学的分析を展開するが、前提となる対象の言動が矛盾を多く持っているので、定説化するのは困難を伴う。

なぜ多くの首相は無能なのか

政界を志す者は国民を代表していない。

権力への欲求は、高等生物での本能である「支配力要求」を満足する。
マズローの欲求5段階説の最終段階「自己実現欲求」を実現するには、政界はは適した分野である。
 (なかには「金儲けのため」に政界を目指す者もいようが、国会議員としては失格者であろう。)
「自己実現欲求」の段階に達しているのは、現在の社会構造での少数派の「勝ち組」である。

公平な社会では、能力に応じて昇進し、能力以上の地位に昇進して無能となる(ピーターの法則)。

政党内で副大臣、大臣、幹事長、首相の階段を上るが、副大臣としては有能であっても、大臣としては無能だと判明すると、大臣が最終ポストになり、それ以上の昇進は得られない。すなわち、公平な社会では、全ての階層が「無能者」で占められる。
首相になっても無能レベルにならない有能な者もいようが、かなり稀であろう。
政権与党が人材不足な場合、前の段階で既に無能レベルに達している者から首相を選ぶことになる。それでスーパー無能首相が出現することになる。

昇進するに伴い、初心の自己欲求の実現は困難になる。

昇進するとは、より多くの人を代表することである。首相になった頃には、政党や支援団体など多様な組織を代表している。
それらの支持者の意見を尊重するのは当然であり、自説を抑える必要があるし、放棄してしまうこともある。
また、支持者が多様化するに伴い、意見も多様になり矛盾する意見もある。それを無能なレベルで調整するのだから、支離滅裂な政策になるのはやむを得ない。

無能な首相は任期が長い

解散は首相の専権事項である。支持率が高いときは、解散は自党勢力を伸ばすチャンスである。逆に、支持率が低いときは解散できない。

支持率低下は、首相個人の能力だけでなく、与党全体の責任であるケースが多い。与党有力者は。交代しても支持率向上は期待できないので、今の首相に押し付けておくほうが安全だと思う。
野党も同様である、支持率低下は内閣不信任の機会だが、支持率低下の大きな要因である経済政策の立て直しには自信がない。政権交代は新政権への批判を高めるリスクが大きすぎる。タテマエでは追及してもホンネで解散を迫る勇気がない。

首相の自由裁量による議院解散権を認めているのは少数の国だけだそうだ。任期満了までの政権を保証し、再任回数を制限するほうが、政権がスキャンダル隠しやバラマキ政策など短視的な支持率対策に溺れるのを防ぎ、長期的な政策により、国民の信を問うほうが、無能首相の出現を防ぎのに適しているのでは?

なぜ政権は無能になるのか

政権を得ると、政権の維持が最大目的になる。

自己実現欲求、支配力要求を発展させるには、次の選挙で自分が当選すること、自党が多くの議席を確保すること、自党内での自派閥の増加が不可欠である。
また、政権維持は、支持者層全体の要望であり、それを実現する任務がある。
選挙で勝つには、多数の有権者が賛成することを政策にするのが当然であり、大衆迎合主義にならざるを得ない。

「明日の百より今日の五十」

政権の基本的任務は、将来にわたって国家の安全・発展、国民の幸福などの戦略を示し、その道筋として当面の政策を実行することである。そのためには「今日の五十」をある程度犠牲にすることも必要である。それを国民に訴えることが政権の任務である
政権の任命責任は、有権者である国民にある。国民の大多数は、国家百年の計はよりも今の問題を重視する。
これは民度が低いというより、行動科学の示す行動原理であり、個人主義の普及度、政治への不信度が高いほど、この傾向が強くなるといわれている。
選挙が近くなると「バラマキ政策」が頻出するのは必然である。

バラマキ政策は経済構造変革を阻害する。

コロナ対策では、打撃を受けた中小企業に救済金をばらまいた。その目的は経済維持・発展であり、それなりに適切な措置だといえる。
しかし、社会にとって特に必要としない業種や、生き延びて将来は税金を払える期待ができない事業者も対象にした。それにより不適切な事業者が市場から退場し、有益な業種、有能な経営者の出現を阻害した。
国は、以前からベンチャー企業の起業・成長を図っていたが、ブレーキをかけることに、それ以上のコストをかけてしまった。

少子化対策とバラマキ政策 国への信頼向上が前提だ

少子化対策が国家最大課題の一つであることには異論はない。しかし、そのためのバラマキ政策の効果は期待できまい。
もし、金銭的理由が大だとするなら、高額所得者は多くの子どももっているはずだか、私の直観ではそうとは思えない。また「カネをやるから子どもを生め」というのは倫理的にも賛成できない。
出産しない大きな理由に、子どもに幸福な未来を保証してやれないことがあると思う。膨大な借金を抱え込み、将来のビジョンが描けない国では、両親だけで子どもに保証することになるが、その自信がある両親はごく稀であろう。
もし「成人になるまでの一切の費用は国が負担する」政策すら効果は限定的であり、その財源を税に求めるなら家計は苦しくなり出産どころではない。国債にすれば子どもの将来を絶望的にするだけである。

公約は膏薬、簡単に剥がせる。

選挙にあたり、候補者や政党が掲げる公約を信用すれば、誰が当選しても、素晴らしい社会になると期待できる。
ところが、公約の内容は、候補者や政党が実現する政策ではなく、有権者に受けると忖度した事項である。
(高校での選挙教育で「公約をよく考えよ」としているそうだが、適切な方法とは思えない)
その公約ですら、財源確保などの実現可能性は示されない。

劇場型選挙(単一争点選挙)に踊らされるな

なかにはマジメな公約もある。昔、小泉政権は、選挙争点を「郵政民営化」び絞り大勝した。政権をとると、確かに郵政民営化は実現したが、「すべての政策に国民の信任を得た」として、自衛隊の海外派兵を強行採決した。海外派兵の是非を選挙の争点したら結果はどうなっただろう。
近年は、「NHKをぶっ潰せ」(日本)「電子タバコ解禁」(米国)など、それが国政の最重要政策とは思えないものを単一争点とする候補者が出現した。それでも比例制で当選する可能性はある。

政策提案の細分化がよい結果を生む

逆に多くのタマゴを一つのカゴに入れるリスクもある。
例えば、憲法改正は大きな事案であるが、賛成・反対の論点は「第9条」に限定されている。それほど重要ではなくても、選挙制度の改正や個人の権利など、環境の変化に対応した改正事案がある。とりあえず第9条を切り離して、大多数が合意する事項に絞った第1次改正をするほうが国民のためになると思うがいかがなものか。

政策よりも人気投票

政党にとって最大の関心は自党候補者の当選数である。どうせ公約などは政党も有権者も無視しているのだから、それ以外の要素が重要であり、適切なのは候補者の知名度と人気である。それでタレント候補を起用する。
一度も国会に出席せず除名された参議院議員がいた。ユーチューバーとしての知名度や影響力で比例区で38万票を獲得したのである。

なかには、経験や実績がなくても優れた能力を秘めている人材もあろう。しかし、知名度が高くても「自己実現欲求」の段階に達しているとは限らない。
当選した時点で国会議員として既に無能レベルになっているのだから、国政に寄与する活動は期待できないし、その立場を私利私欲に利用したとしても致し方ない。

団結のためには外部に敵を作れ。

戦時には、勝利することが最大目的であるから、軍の最高指揮官である現首相・現大統領の支持率が上がる。
平時に支持率の下がった政権は、仮想敵国を創作し、敵国から守るために国民の団結を訴える。
軍事的敵国を創作するのは危険性が高い場合は、貿易収支、文化の違い、昔の被害などを誇張し宣伝するのが適切である。
政権を握ると、その宣伝が足かせになり、現実に敵を作ることになる。

なぜ長期政権は腐敗するのか

選挙にはカネがかかる。そのために、政党、派閥、候補者はカネを欲しがり、腐敗が進む。
腐敗には、賄賂、政治活動費の不正利用、不正選挙運動など非合法的なものが多いが、それ自体が無能レベルに達しているのだから、ここでは対象にしない。

メンバが増えれば無能者も増大する。

長期政権になると、派閥間調整のために大臣や要職の交代が必要になる。大政党とはいえ、有能な議員は少なく、多くの新大臣や新要職は就任した時点で既に無能レベルに達している。
そのため、不適切な発言をしたり、収賄をしたりする(した)者が任命される。
首相は、任命責任を問われるので、無能者をカバーしようとして、ますます説明責任があいまいになる。
野党は、天下国家を論じるよりも、個人のスキャンダルを追及するほうが容易だし、選挙での効果も大きい。マスコミも読者の関心を得るため、これに飛びつく。

お世話になった人にはお礼をしよう。

政権は、多くの支持者の支援で、政権を維持できている。それらの支持者が有利になる政策をとるのは当然だ。しかし、支持者層が国民大多数を代表しているとはいえない。
逆に、自分が有利になる議員に献金するのも人情である。違法行為だけに事実を隠蔽して、かえって国会を空転させるなど、さらなる重大な違法行為を招いている。

献金そのものを禁止するのではなく、その明細を公表し収入に課税すること、献金者に関する議員行動を公表すること、それによる献金者利益の公表などを厳重に行うほうが適切だろう。国民の承認が得られる献金ならば堂々と行えばよいのだ。
これらの事案に対して、いつも「説明不足」だとされている。各議員にWeb官報などに掲載し、質問事項や回答なども含めて、常にアクセスできるようにしよう。「説明不足ができない」システムを構築・運営することが効果的である。

上司の命令で動くのは無能部下。上司の意図を理解して率先して動くのが有能部下。

「すべて公務員は、国民全体への奉仕者であって、一部への奉仕者ではない」のだから、業務遂行に当たっては不偏不党でなければならない。政権が代われば大臣が代わるが、実質的・継続的な仕事は、官僚によってなされるので行政の継続性が保たれる(ことになっている)。
長期政権が続くと、官僚は、その地位による権力は現政権下で得たものであり、政権に忠実なことが地位向上に直結する。
これが「忖度」を生み、行政の公平性が崩れる。

都合の悪いものはなかったことにせよ。

官僚の忖度が日常化するすると、政権に都合が悪い文書は(公文書保管規程には合致していたとしても)極力秘密あるいは破棄するようになる。それが高じると公文書の改ざんにすら発展する。
その「忖度」を政権が(陽か陰かはさておき)指示したとなると大問題に発展する。
野党としては、与党の信用低下に適切な材料であるから、徹底的に追及する。その結果、重要法案の審議はなされず、与党は強行採決に持ち込み、野党はそれを攻撃材料にする。国会は空転する。

心のたるみは口に出る。

国会議員(特に与党議員)が、選挙区の会合などで不適切な発言をしたことが問題になることが多い。
本音だとすれば、既に議員として無能なのだから、辞職するのが当然だろう。
ジョークのつもりかもしれないが、議員としての自覚がないとされる。このような自覚のなさは緊張感がないからであり、長期政権なので次回の選挙でも当選確実だというおごりである。
それにしても、ジョークのセンスがない。海外の政治家の例を見ると、日本はあまりにも後進国だ。初等教育の再検討を望む。

なぜ政府答弁はいつも説明不足なのか

政府批判では「説明不足と強行採決」が多い。
詳細に具体的な説明をすれば、新たなミスをするリスクがある。以前と同じことを繰返し、質問には「適切な対処を検討します」とするのが安全だ。
野党もその事案については十分に知っており、知っているから説明不足だといっているのだ。世間は、マスコミもそれなりに伝えているが。その視聴率は低いという。
ここでの「説明」とは、事実の説明ではなく、野党や世間の指摘を全面的に認めることである。

参議院に「国会有効性監査機能」を持たせよう

自分の代わりに国会議員を選出し、カネを払っているのだから、国会には誠実な被委任責任を持っていただきたい。
国会は適切な法律を作成し、内閣の行政を監視するのが役割がある。ここでは国会の監視に関する提案だ。
国会の業務は、原則として国会会期中に行われる。限られた時間や人数で、国政に重要な事項を優先的に議論する「有効性」が求められる。国会で与野党の討議が行われ、それなりの成果が得られている。議院内閣制では、内閣と与党がグルなので、限界はあるが仕方がない。
ところが、閣僚のスキャンダル追及や答弁の揚げ足取りなどにもかなりの時間や人数が割かれている。その意義はあろうが優先度は低いだろう。さらに、会議中の居眠りやスマホ閲覧などは明らかに職務怠慢である。
国会業務が国民・国家の利益に関する有効度を調査公表する監査機能が必要がある。予算の無駄使いや議員の行動には、会計検査院や風紀委員会などの仕組みがあるが、あまりにも対象が限定されている。
この監査機能は超党派が望ましいが、わざわざ第三者機関に求めるのは無駄だろう。参議院は衆議院のチェックが任務であるから。そこに監査機能を持たせることは妥当だといえる。
なお、超党派性を担保するには、次期改選組と非改選組から超党派で監査委員会を組織し、委員は党から離脱し議会での採決には参加できないなどの工夫が必要である。

なぜ安定した二大政党が実現しないのか

政権交代の可能性があれば、政権の緊張感が維持され、内閣や与党の要職任命、有能人材の育成、政策の透明化や説明責任などが重視されよう。
それには、いつでも政権を担える健全な野党が存在する二大政党の構造が適切だ。なぜ、そのような野党が育たないのだろう?

パレートの法則

物事を大きい順にならべると、第1位が1/2、第2位は1/4、第3位は1/8というように、社会や経済での構成はパレート分布になるのが自然である。
作為がなければ、政党分布もこのようになるのが自然であり、二大政党になるには何らかの工夫をする必要がある。

一致よりも差異のほうが認識しやすい。

自然科学では、AとBの差異の証明では1例を示せばよいのに対して、一致の証明は面倒で「悪魔の証明」といわれている。
統一するには、主要政策での一致が原則である。それが異なれば政権を得ても政策そのものが示されず、すぐに分裂してしまう。
政策一致の可能性を追求しようとすると、その詳細や実現手段には多様な選択肢があり、その調整の段階で、かえって差異の対立点が表面化する。
これは与党内でも同じであるが、政権党に所属する利益が対立よりも妥協を選んでいるのだ。

鶏頭となるも牛尾になる勿れ

小さい党でも党首は最高の地位であり、党内で大きな権力をもつ。小さい党ほど人材がいないので、党首の権力は大きい。
統一すると、党首としての権力を失う。統一による政権交代の可能性が大でなければ、失うもののほうが大きい。

洞ヶ峠こそ弱小勢力の最良戦略

与党の政策に影響を与えるのは(野党第1党ではなく)、小さいが一定の規模をもつ小党である。
与党が政策を進めるには、国会で1/2(あるいは2/3)の議席を確保する必要があるが、健全な政権交代が行われる環境では、わずかに足りないのが自然である。
そのためには小野党と協力体制を組むことになる。小野党は政策協力交渉において、多大な条件を要求することができる。逆に、野党第1党も与党政策を阻止するために、小野党の政策協力を図る。
すなわち、小野党が自党の政策を実現する最大の戦略は、与野党所属をあいまいにすることである。与野党政策とは無関係な単一争点を掲げる小野党は、このプロセスにおいて、その公約を実現できる。

(蛇足)野党よりも公明党

多数派工作として、連立内閣がある。連立党から一部の大臣が任命される。
立法権は、建前では国会にあるが、現実には大部分の法律案は内閣提出案であり、国会は与党が過半数を占める。
そのため、閣議決定がそのまま法律になることが多いが、閣議決定では全会一致が前提だから、連立党との事前合意が必要になる。この合意プロセスが、実質的な法律審議だといえる。
消費税軽減税率やバラマキ政策など、実質的に自民党に影響を与えている(いた)のは、野党ではなく公明党だろう。

最大野党にとって政権奪取は諸刃の剣

何らかの事情により、政権交代が実現することがある。
最大野党とはいえ、単独で安定過半数を確保できるのは稀で、連立政権になる。これまで違いを強調してまとまれなかったのだから、与党となれば猶更、与党内(内閣内)での対立が高まる。政策の決定・推進ができない。
単独与党になれたとしても、これまで前政権批判を続けてきたので、前政権の政策をことごとく否定し変えなければならない。ところが実行可能な代案を持っていないので、新政策は失敗の連続になる。
結果として、次の選挙では、党への支持率は政権奪取以前より大幅に低下し、選挙敗北の責任問題に発展して分裂・解党にもなりかねない。
このような事態を考慮すると、政権奪取のような危険なカケにでるのには、党内議員の多数が躊躇する。
このリスクを回避するには、現在の勢力を増大しつつ与党にならないように、有権者の支持を適当なレベルに制御しなければならない。その検討の結果、優れた政策を立案するような無駄をせず、従来からの与党攻撃を継続すべきだという戦略になる。

二大政党の危険

日照りと豪雨の繰り返しでは作物は育たない。

無能な新政権には実行できる新政策がない。それよりも旧政権の政策を、その是非ではなく、全面的に否定するほうが容易だ。なかには、条約や国際協定まで破棄することになり、国際的信用さえ失う。トランプ政権がその例だ。
消費税を上げたり下げたり、バラマキの対象を変更したり、建設中の公共事業を停止して取り壊したりしたのでは、経済が不安定になり深刻な政治不信に陥る。
政権が交代すると中央官庁の要職を改任するので、上級官僚は現政権の長期維持のために必死になる。

過度な対立を和らげるには、野党に影の内閣を作り、担当大臣間で情報交換や政策調整の場を設けるのが適切かもしれない。でも「なれ合い与野党」になるのはもっと危険である。

攻撃こそ最大の防御

野党は自党の政策を実現することよりも政権奪取が主目的であるが、二大政党では競争相手が明確である。
自党の国家戦略や政策の卓越性を説明するよりも、他党の欠点、しかも政策の欠点ではなく、個人のスキャンダルを暴くネガティブキャンペーンを展開するほうが簡単だし効果的だ。
それが進むとフェイクニュース合戦になる。

情報の発信が多様化すると、情報の受信は偏向する。

政策に関する情報発信は、従来はテレビや新聞などに限定されていたが、現在はSNSなどにより誰でも発信者になれる。
健全な発信であれば民主主義の基盤になるが、政党支持者あるいは掲載広告収入を期待した者によるフェイクニュースも横行する。
A党の支持者は、A党を賛美しB党を誹謗する情報しか見なくなる。A党支持の情報のみが真実であり、B党支持あるいは中立の情報はすべてフェイクだと否定する。B党支持者も同様である。
フィルターバブルであり、これが進むと、国民の分断へと発展する。もはや他党はライバルではなく、存在すら悪だという敵になる。最悪のケースが内乱だ。

排他的政党は困ります。

極右。極左、原理主義などの台頭や拡大が世界情勢の緊張を高めている。
誰もが主義・主張をもっている。通常の場合は、相手の主義・主張も考慮して、レッドラインを超えないレベルで抑えている。気にくわない相手でも殺したりはしない。そのほうが自分も安全だと心得ている。

しかし、政党が世論を味方にしたいときは、その対立を自分は善で相手は悪だと規定するほうがアピールしやすい。世論もわかりやすい図式のほうが受け入れやすい。
それが高じるとフィルターバブルに陥り、ますます先鋭化する。相手を不俱戴天の敵だとして、それをせん滅することが正義だということになる。そこに宗教がからむと絶望的になる。

民主主義国家では、このような極端思想を選択するか制約するかは、国民の投票行動で決まる。
私としては、極端思想を避けたいと思うのだが・・・。

無政党支持層が二大政党制を救う。

特定政党一辺倒な対立を救うのが、「支持政党なし」の層である。この層は「政治への意識が低い」「日和見的だ」とされ、大衆迎合主義の温床だと指弾されることもあるが、両政党の主張を客観的に理解しフェイクに惑わされない健全な層だともいえよう。排他的政党の抑止には不可欠かもしれない。

選挙制度の見直しを

「一票の重さ」と「民意の代表」を両立させるのは難しい。

選挙区での問題
一票の重さが同一であることは民主主義の基本である。国政選挙のたびに、過疎県と密集県での一票の格差が問題になる。
現在では「議員は地域の代表である」というのは成立しない。国会議員は国全体を対象とするので特定地域の利益代表ではない。
県が異なれば県民の事情が異なり、同じ県なら有権者の環境は同じだという観点は、廃藩置県当時の社会を前提としたものである。現在では。国民意見を類型化するのに、地域よりも経済格差や職業格差のほうが大きい。地域を重視するなら行政区画よりも都市部、山間部などの差異に注目すべきだ。
しかし、選挙活動や投票などの事情から、選挙区分を行政区画以外に求めるのは難しい。せいぜい小選挙区を中選挙区にしたり、比例制をどうするか程度であり、恒久的な解決にはなるまい。

立候補者の問題
「国会議員は民意の代表」とするならば、有権者の一票の重さと共に、候補者(議員)の構成が大きな問題となる。現在の議員構成は、ある程度の富を持つ男性の比率が高い。これでは誰に投票しても、国民の代表とはいいにくい。
民意を代表するには、女性枠。収入格差枠などを設定するのが適切である。しかし、それは立候補の機会均等の原則を損ねるので非現実的か?

有権者は優秀なコピーライタを探しているのではない(フェイク公約の禁止)

選挙公約は有権者に「実行責任を伴う契約」であるべきだが、抽象的な単なる作文であることは周知の事実である。
抽象的な「平和な世界を」「国民全体の幸福を」などは当たり前だし、全員が挙げるので判断のしようがない。それを実現するために具体的にどのようなな活動をするのか、実現するための前提条件は何か、実際に活動したこととその結果の成否の評価基準を、数値的に示すことが求められる。ビジネス戦略でのKGIやKPIに相当する。
また、公約が単なるデッチアゲでないこと、実行評価を「公約審査委員会」で保証する。委員会に公平性を求めるのが困難ならば、監査人制度でもよい。不適切な公約だった場合は、監査人は候補者とともに選挙権停止(あるいは詐欺行為)などの処罰の対象になる。AIに丸投げも危険だ。

好きな顔だが、キミのすべてが好きなわけではない。

党の公約では、その党の候補者に投票した人の80%が賛成する公約と40%しか賛成しない公約があるかもしれない。そのため。政権党の全公約を支持したとはいえない。〇〇は積極的に進めてほしいが、××の実施には慎重になれというのが通常である。

全国区の投票のように、投票した候補者が属する党の個々の党公約について賛否を表明する仕組みができないだろうか。
もし政党間で調整がつくならば、全政党の主要公約を整理して、「憲法改正」「防衛費拡大」などの項目に整理して投票用紙に記入しておき、当選候補者の所属政党別に集計することも考えられる。
さらには、各政党が政権をとったときにそれらの各項目に配分する予算額(当然、財源も)を示しておけば、政党獲得数を重みとした予算額が、民意に近いと考えれる。政権党も野党も、それを大きく逸脱しない範囲で協議すれば、合意に達するのが容易にならないか。


くたばれ、資本主義

政策談義は、経済対策への不満になることが多い。多くの高齢者にとって、最も深刻なのは、預金の取り崩しによる財産破綻であろう。しかし、ここでは個人レベルのグチではなく、長年の歴史をもつ資本主義、その背後にある貨幣経済をテーマにする。

資本主義は必然的に格差社会を生む。格差の減少を目指して、資本主義の修正努力が試みられてきた(らしい)。しかし、効果が限定的なのは歴史的事実である。

「富の再配分」論は、貧乏人をさらに貧乏にする

「金持ちから取り上げて、貧乏人に与えよ」の政策は現在では難しい。

金持ちの善意な行為を期待する手段は、目的と逆の結果になる。

国の支援も貧乏人を苦しめる

富への過剰執着をなくすには、「通貨=富=権力」の連鎖を断ち切れ

資本主義による富の一部集中は、「富=通貨」と認識されていること、通貨は用途に限定されないことにある。すなわち、「通貨さえ持っていればなんでもできる」ので権力そのものだからである。
現在では、通貨はモノではなく、数値情報である。通貨の生産・保管・輸送にかかるコストや時間も無視できる程度になった。また、通貨との交換物である権力も無形物である。多額の富を持っていても、実感を伴わないし、その増加にはなんら制約がない。

以下の対策論は、富裕層にエリートとしての満足感を持たせ、貧困層の誇りを傷つけずに、富を分配する仕組みである。しかし、共通した欠点は一国での対策では効果がなく、世界的な対策として取り組む必要があることだ。

通貨の汎用性を制限すれば富への過剰執着が減少する

コンビニやスーパーなど安価な生活必需品の支払にしか使えないA通貨、宝石購入だけに使えるB通貨など、通貨に用途制限を設定する。特定の用途にしか使えない通貨を過剰に保有したい欲望は高くあるまい。
当然、通貨間交換は必要である。B→Aは自由であるが、A→Bには高い交換レートを適用することにより、贅沢品課税と同様な効果が期待できる。
差額物品税と同じようだが、運営費用は現行の銀行システムに若干の手直しをするだけでよい。同時に通貨のデジタル化を進めれば、造幣局の負担も少ないだろう。

格差解消にはギニー金貨を採用せよ

かって英国では、貴族用通貨のギニーと労働者用通貨のポンドがあった。どちらも同じ価値だが、1ポンドは20シリング、ギニーは21シリングである。貴族が労働者に支払うときはギニーを用いることにより1シリングのチップを自動的に与えることになる。
これを応用して、円(100銭)と両(200銭)の複数通貨にして、富裕層は両しか使えないことにする。富裕層の収入には2円=1両のレート、支払は1円=1両のレートを用いる。貧困層は自由に2円=1両のレートでの交換ができる。
なお、富裕層の判別は財産評価を基準とするが、中間層には自己申告制度を採用して「うぬぼれ」を満足させることも考慮する。
さらに、運用が複雑にならないならば、5円=1圓など、多段階通貨の採用も考えられる。


国際・外交

外交一般

外交問題は国内問題である。

「外交は、武器を用いない戦争」なのだそうだ。外交当事者にとって、外交交渉とは駆け引きや騙し合いの問題になる。それには Win-Win のための譲歩が前提になる。
それに対して、素人(国民)は(自分の観点での)正義の問題だと考える。問題は、自国の素人と相手国の素人が信じる正義が異なることである。
しかも、国民の中には狭隘なナショナリズム分子がいる。正義のためには手段を選ぶ必要はなく、極端には相手の存在すら認めない思想を作り上げる。社会不安が高いと、これが大きな勢力に成長する。
為政者にとって、自国利益の確保よりも、国内の自分への支持率が重要だ。互いの自国民への説明が重要になる。
  どのようにも解釈できる玉虫色の合意書になりやすい。→解決にならない
  勢力を伸ばした極端分子に迎合する。→戦争?

自分が理想を掲げれば、他人も同調すると考えるのは妄想である。

日本国憲法は戦争を認めない。日本の平和は、「平和を愛する諸国民の公正と信義を信頼」することを前提にしている。
しかし、「平和を愛する諸国民」が存在するか、「公正と信義」を尊重し行動するかの根拠はない。
そもそも憲法は、自国の為政者に対する規制であり、他国には無関係なものである。

国際緊張

近くに熊・虎・狼がいるのは怖いものだ。

羊が力を付けるのは大変だ。走力をつけて食われるまでの時間を延ばす程度がせいぜいだ。
ハリネズミやスカンクに倣って核武装する方法もある(北朝鮮の例)が、彼らの攻撃を早めるリスクが大きい。
「私はマズイ」ことを認めさせるには、試食させることになるので不適切だ。
それで鷲を保護者として頼ることになる。ところで信頼している鷲は、どこまで助けてくれるだろうか。

暴力団抗争ではボスは闘わない。(地域戦争と全面戦争)

実際に闘わされるのは下っ端であり、ボスがサシで闘うことはない。費用対効果の観点から適当なときに抗争を止める。でも和解したのではないから、ときどき下っ端に争いを起こさせる。
下っ端にならないようにしようとすると、ボスの利権がからむので、争いを起こさせられやすい。下っ端が双方のボスを説得しようとするのは、身の程知らずであり、現在の体制にたてつくとして、両方からの攻撃を受けやすい。

軒を貸すと母屋を取られる。

ロシアはウクライナに侵入し、占領地で住民投票を実施、ロシアへの併合を決定した。このような暴挙は世間が認めないし、費用対効果の面でも下の下の戦略である。
A国は、私有財産の過疎地が多い。B国はそれに着目して、民間取引でその土地を合法的に取得した。あるとき、B国はその土地にB国民を移住させる。それも合法的だ。そして機会をみて、住民投票を実施、B国への併合を決定する。住民投票で失敗しそうならば、A国がB国民を迫害していると喧伝する。
ここには暴力はないし、住民自決の原則に合致する。はるかにスマートな戦略だろう。

国際条約

他国との約束は、条約として国内法規より上位のはずだが・・・

契約の意味を知らない相手と契約するのは危険である。

A家はB家に借金があったが、親の時代に清算して合意書を取り交わした。
B家の家督を継いだ息子は、A家に借金を返せという。合意書があっても、それは親のことで自分には無関係だという。
あまりにもうるさいので、息子に同額を支払った。孫の時代になったら、また借金を返せというだろう。

歴史は事実ではなく、でっちあげるものだ。

国境に近い小島の帰属問題は深刻である。歴史的文献などにより問題発生以前の所属を調べて決めるのが常識的手段であろう。
しかし、有力な資料をもたない国は、歴史的文献を改ざんしたり創作する。不利な資料が現れたときは、相手の脅迫によるものだという。
これらのフェイクを第三国に喧伝して信じさせる。この段階になると、歴史的資料云々よりも相手が悪者だと印象づけることが効果的になる。
圧倒的に不利なときは、不法占拠して既成事実とする。相手は、この程度のことで全面戦争にするのは費用対効果が低いので、心ならずも泣き寝入りする。

「歴史認識」は外交ノウハウの好例

外交は正義の主張ではない。国益の追及にある。その面では、日本は韓国に大きく遅れている。その好例が「歴史認識」だ。

「歴史」の範囲
韓国は日本に歴史認識を要求する。単純に文字だけを解釈すると、2千年来の両国関係史となるが、弥生時代の朝鮮民族の日本移動まで遡るのではあるまい。蒙古襲来や朝鮮出兵も対象外のようだ。
また、戦後の歴史も除外されている。日韓賠償協定や経済協力に関しては避けているようだ。
韓国の主張での「歴史」とは1910~1945年の朝鮮併合の期間に限定されると考えられる。

「認識」の意味
意見が分かれているときの「認識」とは、両者が客観的な観点で共同研究をした結果を共有化することだとするのが通常だろう。
竹島問題では竹島関係文献の共同研究とも解釈されるが、政治より決定力のある純粋に客観的な研究グループを設立する動きはない。韓国政府から正式にこのような提案があったことはなかろう。慰安婦問題や徴用工問題も同様だ。
韓国のいう「認識」とは、「韓国の主張を無条件に受け入れ、自分の罪を認め懺悔し、すべての要求に従うこと」らしい。

なぜ「歴史認識」なのか
「歴史認識」などとあいまいな表現ではなく、もっと端的に「日本占領時の不法行為に関して、日本は反省していないどころかその事実を歪曲している」としたらどうか。長すぎるなら「不法占領の損害要求」になるが、そうすると「一切の請求権を放棄」した日韓賠償協定で、主張そのものが存在しないことになる。
「あなたの○○がキライ」というより、漠とした「あなたがキライ」というほうが相手の弁明を許さず、与える打撃が大きい。その応用だろうか?

事実証明より世論形成のほうが簡単だ
科学的に「日本占領時の不法行為」を立証するより、世界に向かって「日本は悪い奴だ」と吹聴するほうが簡単だし効果がある。関係のない第三国に慰安婦像を設置するなどがその好例である。
これを展開することにより、将来「歴史」に無関係な「日韓対立」が発生したとき、世界が自分の味方になってくれる。国益に合致した外交手段である。

(関連)統一教会
韓国に本部を置く統一教会は、「韓国はよい国で日本は悪い国だ。日本は韓国に献金をするのが神の許しを得る手段だ」と、多数の日本人を洗脳して、多額の献金をさせ、その大部分を韓国本部に送金した。
手段や使途はともかく、マクロ経済ではその献金は国家の収益になる。統一教会は韓国経済にとって偉大な貢献者だといえる。
これは政府政策の「歴史認識」を、民間で応用した成功例といえるのでは・・・。