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タイプライタは、タイプライタ→テレタイプ→紙カード・紙テープ穿孔機→パソコンのキーボードというように、コンピュータ入力機器の原点になるものである。
タイプライタの歴史には、次のような観点があるが、ここでは「機器の発展」をテーマにする。
1714年 最初のタイプライタ?
1874年 商業的に成功した最初のタイプライタ「Remington No.1」
1878年 シフトキーの採用「Remington No.2」
1884年 フルキー「Caligraph No.2」
1893年 Front Strike/Visible方式「Daugherty Visible」
1895年 プラテンの上下移動によるシフトキーの採用「Underwood No.1」
1714年にイギリスのヘンリー・ミルが筆記機械の特許を取得したのがタイプライターのルーツだという説もあるが、「タイプライタはおおよそ52回発明された」というように、一人が発明したというよりも、多くの人が改良を加えていった結果、実用的なものになったのだとするのが妥当だろう。
1874年にレミントン(当時の社名:E. Remington and Sons.)が製造したタイプライタが商業的に成功した初のタイプライタだといわれている。本機により、
「タイプライタ」という用語が初めて用いられた。
現在広く普及しているQWERTY配列が採用された。
このタイプライタは、水平な紙に対してピアノのように、下から上にタイプアームが打ち付けて印字する仕組みで、タイピングしている人からは印字された文字を確認できなかった。
なお、E. Remington and Sons社のタイプライタ部門は、レミントン・タイプライター社となり、タイプライタのトップメーカーになった。なお、レミントンの子会社レミントンランドは、アメリカのコンピュータメーカーでUNIVACを製造する。
当時のタイプライタは、次の制約があった。
1878年のRemington No.2は、シフトキー(Shift key)により、一つのアームに刻んだ大文字と小文字を切り替える方式を採用した。これにより、鍵盤数を少なくすることができるので、機構が簡略化され、製造コストが劇的に低減され、タイピストの操作も単純化される。
シフトキーは特許の関係で他社は使えなかったため、大文字と小文字を別々の鍵盤にしたフルキー(full keyboards)方式のタイプライタが出現した。1884年のカリグラフ2号機(Caligraph No.2)が最初だといわれる。鍵盤の数が74個になり6段になっていた。フルキータイプライタには、スミス・プレミア(Smith Premier)、センチュリー(Century)、ヨスト(Yost)などがある。
フロントストライク(Front Strike)方式とは、ハンマーが手前にある構造であり、それにより、打鍵する場面が見える(Visible)ようにしたものである。タイプした文字を直ちに確認できれば、その場で手作業で何らかの修正ができるので便利であり、画期的な改善だといえる。
最初のFront Strike/Visible方式のタイプライタには、Daugherty Visible (1893)、やPittsburg Visible (1898)などがある。
1901年に発売された「Underwood No.5」は、発売後10年間で50%以上のシェアを獲得した。それまでのタイプライタの発展を集大成したもので、20世紀前半の機械式タイプライタのステレオタイプになった。
1904年 ローズ(Frank Rose)、ポータブルタイプライタの特許取得
1908年から製造開始「Standard Folding」
1914年 スミス兄弟(Lyman C. Smith、Hurlburt W. Smith)「Corona Personal Typewriter」
1922年 Royal typewriters社「Royal Portable」
現在ではパソコンを携帯したいように、20世紀初頭ではタイプライタを携帯するニーズがあった。Underwood No.5の重量は13.6kgもしたし、体積も大きいので、持ち運びは困難である。それで、軽い構造にして、紙送りの円頭部を折りたたんで、軽量コンパクトにする工夫がとられた。Standard Foldingの重量は2.5kgだった。
1960年代になると、タイプライタは機械式から電動式、さらに電子式へと移行する。機械式タイプライタは、機能面というよりもデザイン面(優美さ)が重視されるようになった。その典型的な機種が1968年にOlivettiから発売されたValentineである。
Olivettiはイタリアのコンピュータメーカーであるが、それ以前にはタイプライタメーカーとして、コンピュータでのAppleのように、独自のデザイン重視のタイプライタを開発していた。1963年には米国の大手タイプライタメーカーであるUnderwood社を吸収合併していた。
Valentineは、ソットサス(Ettore Sottsass)がデザインしており、洗練されたデザインと真赤なカラーリング(赤いバケツといわれた)により、一種のステータスシンボルとなった。その後、復刻版が生産されているほどである。
Olivetti Valentine(1968) (拡大図) |
その携帯鞄(赤いバケツ) (拡大図) |
20世紀前半を通して普及してきた機械式タイプライタであるが、1960年代になると電動タイプライタ、1970年代になると電子式タイプライタの出現により、それらに置き換わっていった。さらに、1970年代から1980年代にかけてワープロ、その後のノート型パソコンの出現により、タイプライタそのものが姿を消していった。
電動タイプライタは、20世紀前半から開発されていたが、当時では高価格で故障が多いなどの欠点により、あまり普及しなかった。
1914年 スマザーズ(James Fields Smathers)、電動式タイプライタ発明
1925年 レミントン、電動タイプライターを発売
1935年 IBM、Electric Typewriter Model 01 を発売
電動タイプライタの本格的な生産が始まったのは、1961年に開発された「IBM Selectric typewriter」からである。
機械式タイプライタでは、キーを押す指の力で直接タイプアームを動かしていた。電動タイプライターではキーを軽くタッチすれば、タイプアーム部分をモーターで駆動する。それで、キー部分が現在のキーボードのような形状になった。また、改行動作を自動的に行い高速にすることができる。
さらにIBM Selectric typewriterでは、タイプアームではなくゴルフボールに似た形状のタイプボールを用いている。
IBM Selectric typewriter(1961) (拡大図) |
タイプボール (拡大図) |
印字状況 (拡大図) |
さらに1970年代には、デイジーホイールの印字機構が主流になった。これは、花びらのような形状の先端に活字が並んでいる円盤を回すことにより印字する方式で、タイプライタだけでなく、プリンタにも広く使われるようになった。
1970年代になると、電子式タイプライタが出現した。
本体にバッファメモリを備えることにより、文字の加工(センタリングなどの位置決め、アンダーラインなど簡単な修飾、数字の位置揃え)などが可能になった。
印字するとともに、紙テープに穿孔し、紙テープを読み込みながら修正をするような機能をもつものも出現した。
これらが進むと、キーを押した段階では印字せずディスプレイに表示し、修正を行ってから一斉に印字する機能になる。これはタイプライタというよりワープロというべきであろう。ブラザーは、1982年に世界初の電池駆動による世界最小の電子タイプライタ「EP-20」を開発したが、この技術は、1984年に発売した日本語ワープロ「ピコワード」につながったという。すなわち、1970年代から1980年代初めにかけてタイプライタからワープロの移行期になったのである。
日本では邦文タイプライタが主流であり、英文タイプライタを使う機会は少ない。そのため、戦前では日本の英文タイプライタ産業は存在しなかったといってもよいような状態であった。
1901年 黒澤商店が5月にアメリカからエリオット社タイプライターを日本に持参
1914年 杉本京太 日本初の邦文タイプライターを発明開発する
1917年 黒澤商店、L.C.SMITH社のタイプライターを改造し、電信用カナタイプライター「和文スミス」を開発
1933年 黒澤商店、独自の電信用カナタイプ「アヅマタイプ(AZMA TYPE)」開発
しかし、戦後は日本の機械産業は世界で最高水準になった。1960年代から、日本はタイプライタの主要輸出国になった。
1961年に、ブラザーは欧文タイプライタの生産開始。全米での販売に成功
1964年の輸出額の80%は欧文タイプライタ
1984年、日本製タイプライタが欧米の輸入規制品目指定