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国のコンピュータメーカー保護育成の歴史

関連:汎用コンピュータの歴史


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年表

赤:法律、 青:補助金・プロジェクト

1955年 東京証券取引所と野村證券、UNIVAC120導入(日本最初の商用コンピュータ導入)
1957年 電振法(電子工業振興臨時措置法)
1958年 電子協(日本電子工業振興協会)
1959年 日立 HITAC 301、富士通 FACOM 212、日電 NEAC 2203、東芝 TOSBAC-2100
1959年 IBM 7090(科学技術計算用、大型機)、IBM 1401(事務処理用、中型機)
1961年 日本電子計算機(JECC)設立
1961年 日本IBM、国内生産開始
1962年 FONTACプrジェクト 3.5億円
1964年 IBMシステム/360
1965年 日立 HITAC 8000シリーズ、富士通 FACOM 230シリーズ、日電 NEAC 2200シリーズ
1966年 大型工業技術研究開発制度(大型プロジェクト)
1966年 日本ソフトウェア(株)
1966年 超高性能電子計算機 100億円
1967年 日本情報処理開発センター設立
1970年 IBMシステム/370
1971年 パターン情報処理システム 220億円
1971年 IBM、アンバンドリング実施
1971年 機電法 (特定電子工業および特定機械工業振興臨時措置法)
1972年 情振法 (情報処理振興事業協合等に関する法律)
1972年 「新製品系列開発」補助金(新機種コンピュータ開発プロジェクト)570億円
1975年 電子計算機の資本の自由化・輸入の自由化
1976年 「超LSI開発」補助金 300億円
1977年 国産各社、アンバンドリング政策発表
1978年 機情法 (特定機械情報産業振興臨時措置法)
1979年 IBM、システム/4300シリーズ、第4世代へ
1981年 科学技術用高速計算システムプロジェクト 175億円
1982年 第五世代コンピュータ 570億円
1985年 電気通信事業法、通信回線の自由化
1985年 情促法(情報処理の促進に関する法律)←情振法
1985年 Σ計画(ソフトウェア生産工業化システム)220億円
1992年 RWC(リアルワールドコンピューティング、4次元コンピュータ)570億円


~1960年 コンピュータ業界揺籃支援の時代

1950年代は、国産コンピュータは研究段階で、大規模処理を必要とする実用機としては不十分であり、米国からの輸入機に頼る状態であった。そのため、国産コンピュータ産業の台頭を促す必要があった。

1957年(~1971年)電振法(電子工業振興臨時措置法)

電子計算機およびその周辺装置の開発研究,性能改善,生産合理化などに対し,補助金の交付や設備合理化融資が行われた。
通産省(通商産業省、現経済産業省)が
 研究・開発プログラムの作成
 国産コンピュータメーカーへの資金援助
   業界の再編権限
などを担当することにより、通産省がコンピュータメーカーに大きな影響を与えることになる。

参照:衆議院「特定電子工業及び特定機械工業振興臨時措置法」(特振法)1971
http://www.shugiin.go.jp/internet/itdb_housei.nsf/html/houritsu/06519710331017.htm

1958年 電子協(日本電子工業振興協会)

電振法の趣旨に沿い,先端技術の調査研究,生産の合理化などに対し利用の普及を目的とした。,コンピュータメーカーを目指す企業が主要会員になる。
電子協は1958年に電子計算機センターを開設
 国産コンピュータ新開発機種を一堂に集め,一般にPRするショールーム
 実務に使いながら性能,信頼性,安定度などのデータ収集・公開
 各社共通の言語SIP(Symbolic Input Program)、プログラムライブラリの作成
 プログラマの養成(機械語)、センター機器で実用テスト
 コンサルテーション,有料受託計算
などを行った。
  これらにより、国産コンピュータ利用促進に大きく貢献した。
電子協は20000年に日本電子機械工業会(EIAJ)と統合され,電子情報技術産業協会(JEITA:Japan Electronics and Information Technology Industries Association)となった。

情報処理学会 コンピュータ博物館「日本電子工業振興協会」(電子協)
http://museum.ipsj.or.jp/computer/dawn/0063.html

1960年~1965年 コンピュータ業界の育成・保護の時代

1960年初頭から日本でのコンピュータ産業が台頭した。主要なメーカーは、日立、富士通、日電、三菱、沖、東芝の6社である。日米の差は10年以上といわれ、早急に差を詰める必要があった。
(IBMは戦前から日本法人をもち、1959年に日本IBMと改称、生産も開始した。)

1961年~1964年 技術導入援助

通産省は、メーカーの米国からの技術導入を援助した。また、国産メーカー育成のために、海外からの参入を制限した。
       日立  三菱  日電    沖   東芝
  提携先  RCA TRW ハネウェル SR  GE
  認可年  61年 62年 62年   63年 64年
  期間   10年 15年 10年   10年 10年

富士通は、自社技術を重視して提携をしなかった(IBMに断られた?)。
IBMは、社の方針として連携を断った。パテントの提供にも否定的であった。その解決のために、国とIBMとの間で交渉が行われた。

参照:青木 洋「日本の初期コンピュータ産業と外資提携−IBMとの交渉過程−」2016
http://minto.tech/windows-history/

1961年(~1985年) 日本電子計算機(JECC:Japan Electronic Computer Company)

日本開発銀行の融資を前提として、国内コンピュータメーカーが共同出資して設立。
国内ユーザ企業が国産コンピュータを採用したとき、
 JECCがメーカーからコンピュータを買い取り代金を支払う(開発銀行からの低利融資)。
 ユーザ企業は、JECCからレンタル契約で、コンピュータを借りる。
 レンタル解約時には、メーカーはJECCから簿価で引き取る。
 引き取りのための電子計算機買戻損失準備金制度を設ける。
の仕組みにより、ユーザ企業が国産コンピュータを採用しやすくする効果があった。

参照:情報処理学会 コンピュータ博物館「日本電子工業振興協会」(電子協)
http://museum.ipsj.or.jp/computer/dawn/0063.html

1962年(~1964年)FONTAC

通産省は富士通、沖電気、日電の3社に「電子計算機技術研究組合」を結成させ、補助金を与えて、IBM 7090や7094レベル以上の国産コンピュータの開発を目標としたプロジェクトを実施した。FONTACは成功し、日本電子工業振興協会に納入された。
FONTACシステムは,主コンピュータとして高速大容量の記憶装置と多数の入出力チャネルを持つ大型2進計算機FONTAC Centralを,衛星コンピュータに可変語長のFONTAC Sub Iと固定語長のFONTAC Sub IIを使用し,主コンピュータと衛星コンピュータは密接に結合した本格的なマルチタスクシステムを実現した。
富士通は、,FONTAC Centralを改良してFACOM 230-50として製品化した。

参照:情報処理学会 コンピュータ博物館「電子計算機技術研究組合 FONTAC」
http://museum.ipsj.or.jp/computer/main/0005.html

参入障壁

この頃には、米国の進出を防ぐために多様な障壁政策がとられた。これらは、1970年代まで続く。

1965年~1980年 メーカー補助金の時代

この頃になると、本格的な国産コンピュータが普及してきた。しかし、財政的な足腰は弱く、将来への研究や設備などへの投資が懸念された。その対処として、通産省が主体となって大型プロジェクトを運営し、コンピュータメーカーに分割委託することにより、委託費の名目で補助金を与えることが多くなった。


1960年代のコンピュータ設置状況の推移
  出典:日本電子計算機(株)「JECC10年史』1973,p.82
坂本和一「コンピュータ産業の形成」)より作図

1970年頃になると、それまでの重化学工業重視から、コンピュータを中核とする情報産業へ産業政策の重点が移行した。
 反面、参入障壁などの保護政策が海外から非難を受けるようになった。そのため、逐次コンピュータの輸入・資本の自由化を進めることになった(1975年実施)。その対策として国際競争力をつけるための補助金制度がさらに必要になった。

1966年 大型工業技術研究開発制度(大型プロジェクト)

コンピュータ技術だけでなく広い分野に適用された制度である。通産省工業技術院と参加民間企業で組合を作り、工業技術院が自ら開発を行う一方,多くを組合を通してメーカに委託し、必要な開発費全額を委託費として支払う形式である。
この制度は、1993年に産業科学技術研究開発制度に統合されるが、基本的な形態は現在まで継続している。 この制度により、コンピュータ分野では以下のようなプロジェクトが実施された。

参照:勝本雅和「大型工業技術研究開発制度に見るプロジェクト・フォーメーションのルーティン」2002
http://pure.iiasa.ac.at/6540/1/Routines%20of%20Project%20Formation%20in%20the%20R%26D%20Projects%20on%20Application%20of%20Industrial%20Technologies.pdf

1966年(~1972年)超高性能電子計算機

1964年にIBMシステム/360が出現した。ICの全面的採用、科学技術計算用と事務処理用をカバーした汎用コンピュータ、統一アーキテクチャ(ファミリシリーズ)など画期的なコンピュータで、これによりコンピュータは第三世代に入ったといわれる。
本プロジェクトは、5年後のコンピュータを想定して、国際競争力のある大型計算機を5年後に完成することを目標とした。
日立が本体と全体を統括し、日本電気、富士通、東芝、三菱電機、沖電気などが集積回路や周辺装置の開発を請け負った。OS開発には日本ソフトウェも加わった。
通産省は、これを機に国産コンピュータの共通アーキテクチャを策定しようしたが、各社の反対にあい実現することはなかった。

参照:昭和44年科学技術白書「超高性能電子計算機の研究開発 」1969
http://floadia.com/column/semi_21.pdf

1966年(~1972年)日本ソフトウェア(株)

超高性能電子計算機プロジェクトでのソフトウェア分野を担当するために、日立,富士通,日本電気3社設立
国産コンピュータに共通に使えるソフトウェアにする構想だったが、現実には無理があり、共通ソフトウェアと固有ソフトウェアとに分け、日本ソフトウェアでは共通ソフトウェアを担当することになった。プロジェクトの終了とともに解散した。

1971年(~1980)パターン情報処理システム

電子技術総合研究所(電総研)とコンピュータメーカー6社が参加して、パターン認識を対象にした総合システムを実現することを目的とした。
認識対象は、電総研(全般)、東芝(印刷文字・図形)、富士通(手書文字)、三菱(図形)、日電(音声)、日立(物体)と分担した。
部品材料として、半導体レーザ、CCD、感光材料などの研究も行われた。
個別分野での成果はその後の産業化に貢献したが、「総合システム」としては実用化には至らなかった。

参照:江尻正員「パターン情報処理-その過去・現在と,若い世代への期待- 」2006
http://www.murase.m.is.nagoya-u.ac.jp/fm-kenkyukai/event/FM06-4-3.pdf

1971年(~1977年)機電法 (特定電子工業および特定機械工業振興臨時措置法)

電振法と機振法を統合した法律。今後の機械が機電一体化、頭脳集約化、需要志向化するとの認識から、指定業種を対象に、資金の確保・斡旋、合理化カルテル、大規模事業での協調をすることになった。

参照:「特定電子工業及び特定機械工業振興臨時措置法」(特振法)1971
http://www.shugiin.go.jp/internet/itdb_housei.nsf/html/houritsu/06519710331017.htm

1972年(~1976)「新製品系列開発」補助金(新機種コンピュータ開発プロジェクト)

1970年に発表されたIBMシステム/370は第3.5世代といわれ、先の超高性能電子計算機プロジェクトを突き放した。1972年にIBMが実施したアンバンドリングは、それまでのソフトウェアやSEサービスはコンピュータのおまけという販売方法を根底的に覆した。コンピュータ輸入自由化が時間の問題になった。
このような状況に際して、通産省はコンピュータメーカー6社を3グループに再編して、重複開発を排除した開発合理化を図る政策をとってきた。その実現手段がこのプロジェクトである。
 日立・富士通:Mシリーズ(IBM互換機)
 東芝・日本電気:ACOSシリーズ(提携先がHIS)
 沖・三菱電機:COSMO シリーズ(提携先がスペリーランド)
この3グループはそれぞれ組合を結成し、補助金を受けることとなった。

参照:Wikipedia「三大コンピューターグループ 」
https://ja.wikipedia.org/wiki/三大コンピューターグループ
京都アイネット「日本のコンピュ―タの発展 」
http://web.kyoto-inet.or.jp/people/s-oga/jcomhist/ron-b.htm

1973年(~1985年)情振法 (情報処理振興事業協合等に関する法律)

電振法が主にハードウェアを対象にしていたのに対して、情振法はソフトウェアの分野、すなわち、電子計算機の利用促進,ソフトウェアの開発・流通の促進,情報処理サービス業・ソフトウェア業等の育成を図ることを目的とした。
  電子計算機利用高度化計画の策定
  プログラム調査簿の作成・公表
  情報処理技術者試験の実施
  情報処理振興事業協会(IPA)の設立 を規定している。
本法律は、1985年に、情報処理の促進に関する法律に改訂された。

参照:ITAC「情報処理の促進に関する法律の沿革 」
http://www.itac.gr.jp/rekishi.asp

1975年 電子計算機の資本の自由化・輸入の自由化

新機種コンピュータ開発プロジェクトの効果もあり、この頃には「日の丸コンピュータ」は一人前になった。
米国を除いて、自国産コンピュータが大多数を占めるのは日本だけという状況になったのである。
以前から参入障壁政策は海外からの批判が強かったが、この年に自由化が行なわれたのである。

1976年 「超LSI開発」補助金

この以前に、IBMのFS(フューチャーシステム)計画が明らかになる。「1980年までに1MビットのDRAMを開発して次世代コンピュータに搭載する」というのだ(このFS計画は挫折したが)。当時の国産DRAMは16ビット開発中のレベルであった。LSIに取り組むために、通産省は大型技術研究開発制度を用い、「超LSI技術研究組合」を発足させた。
潤沢な資金により、各社の開発力、生産力は大きく飛躍した。、微細加工技術やシリコンウェーハ技術などLSI製造技術も大きく進歩した。これが基盤になり、1980年代から1990年代前半まで、日本は世界中の大型コンピュータメーカーへのメモリ製品供給源となったのである。

参照:奥山幸祐「超エル・エス・アイ技術研究組合(1) 」
http://floadia.com/column/semi_21.pdf

1978年(~1985年)機情法 (特定機械情報産業振興臨時措置法)

これまでの電振法・機電法と同様の振興策を継続しているが、特にソフ トウェア業を支援対象に加えたのが特徴である。また、ユーザーに対する税制上の優遇措置が1979年度から実施された、

参照:「機情法 (特定機械情報産業振興臨時措置法)」1978
http://www.houko.com/00/01/S53/084.HTM

1980~1990年 話題性プロジェクトの時代

国産メーカーは、IBM対抗者に成長した。1979年には富士通が国内のコンピュータ関連売上高で日本IBMを抜いた。1983年には、国産メーカーのコンピュータ関連売上高は2兆円近くになった。コンピュータの輸出も多くなった。このような環境では、国産メーカーにとって、補助金の魅力はなくなってきた。


汎用コンピュータ売上高シェアの推移
出典:「コンピュータ会杜10杜の実力分析」
『コンピュートピア』1982年11月号


汎用コンピュータ設置金額シェアの推移
出典:『コンピュートピア』各年1月号

米国では 、日本が官民一体で米国のメーカ立ち向かってくるという「日本株式会社論」の批判が強まった。国としては、コンピュータメーカへの直接の助成をするのは不適切だとされるようになった。
   1980年代の日本経済は高度成長期で、国に財政的な余裕があった。各省は魅力のある提案をすれば予算を認められる環境にあった。
 コンピュータ技術は急速な革新が行われていた。しかし、その研究は大規模になり、研究者は多大な資金が必要な状況だった。

私の批判的な主観であるが、先進的な分野での野心的な研究者と通産省の省益がマッチして、大規模なプロジェクトが行われることになった。魅力のある目標を掲げているが、実務的な効果が得られないプロジェクトが多くなってきたのである。

1981年(~1989年)科学技術用高速計算システムプロジェクト

当時のスーパーコンピュータはベクトル型スーパーコンピュータが主流で、 CRAY-lで160MFLOPSを上回っていた。
富士通、日立、日電は、ベクトル型スーパーコンピュータに必要な半導体技術と並列処理技術等は次世代汎用コンピュータに役立つとして、その研究や開発を進めていた。
通産省は、10GFLOPSレベルのスーパーコンピュータ構築のための要素技術開発を目的としたプロジェクトを計画した。
電子技術総合研究所に、コンピュータメーカー6社をメンバーとする科学技術用高速計算システム技術研究組合を設立して、通産省がコーディネータになり資金を拠出する組織形態である。

研究内容
  論理素子及ぴ記億素子の研究:ジョセフソン(<bJJ)素子、HEMT素子、ガリウム砒素(GaAs)素子
  並列処理方式の研究:並列処理アーキテクチャと並列処理ソフトウェア
  総合システムの研究:高速演算用並列処理装置、 大容色高速記憶装置 分散処理用並列処理装置

個々の研究成果はあったものの、実務的な効果はあまり得られなかった。

このプロジェクトそのものは大した成果は得られなかったが、この間に国産スーパーコンピュータは大きな発展をした。1993年には富士通の「数値風洞」、1996年には日立の「SR2201」が世界最高速のスーパーコンピュータになったのである。

参照:中村吉明、渡辺千匁 「通産省の研究開発プロジェクトのマネジメントと効果:スーパーコンピュータプロジェクトのケーススタディ 」1999
https://dspace.jaist.ac.jp/dspace/bitstream/10119/5730/1/1999-1B07.pdf

1982年(~1992年)第五世代コンピュータ

電子技術総合研究所(現在の産業技術総合研究所)では述語論理によるプログラミングに強い関心を持っていた。それを受けて、通産省は、当時話題性の高かったエキスパートシステム、自然言語処理、機械翻訳なども含む人工知能コンピュータを開発することにまで目標を広げたプロジェクトにした。この計画は欧米の学者に高く評価され、欧米のコンピュータメーカーに危機感を与えた。それもこのプロジェクトを予算獲得を容易にした。

このように技術としては成功した。しかし、第5世代コンピュータは実務に活用されることはなかった。メーカやユーザがこの並列推論マシン上に応用を開発するだろうと期待していたのに完全に裏切られたのである。
人工知能を活用するには、ハードウェアだけでなく、適切なソフトウェアや膨大なデータが必要だし、自然言語解析の方法論の発展が必要である。しかも、エキスパートシステムへの適用対象では、従来型の高性能コンピュータで対応できた。
技術面では成功したのに画期的な応用を示せなかったのだ。
否定的な評価が多いが、2010年代に人工知能ブームが起こったとき、このプロジェクトの参加者やその後継者が日本での人材となったのである。

参照:JIPDEC「第五世代コンピュータ・プロジェクト 最終評価報告書 」1993
https://www.jipdec.or.jp/archives/publications/J0005062
Wikipedia「第五世代コンピュータ 」
https://ja.wikipedia.org/wiki/第五世代コンピュータ

1985年(~1990年)Σ計画(ソフトウェア生産工業化システム)

1972年にIBMが実施したアンバンドリングは、ソフトウェアの価値を認識させた。コンピュータの普及はソフトウェア開発の人材不足を招いた。1984年に通産省は「1990年頃には、日本のソフトウェア技術者が60万人不足する」と予測し、ソフトウェア産業の育成が急務としていた。
著名なUNIX技術者である岸田孝一は、「ソフトウェアの開発者・研究者が自由に情報やソフト開発ツールを交換できるUNIXベースの全国通信ネットワークを構築する」ことの重要性を説いていた。
通産省がこれに関心を示し、Σ計画を発足した。しかし、コンピュータメーカーの参加により「ソフト技術者が不足する」→「効率的なソフト開発を支援する標準プラットフォームが必要」→「1990年をめどに1台100万円台の低価格UNIXワークステーションを開発して普及させる」ことが主目標になってしまった。
ところが、当時のUNIXは、バークレー版とATT版の2潮流があり、メーカー間の対立もあった。プロジェクト中にUNIXサーバーの急速な発展により、目標自体が時代遅れになってしまった。
Σ計画にはソフトウェア共有化の手段として、業務用の標準プラグラムの提供やユーザからの登録促進などの目標もあったが、ほとんど発展しなかった。プログラマ不足は事務処理分野であったが、ユーザ企業は汎用コンピュータが主流だったし、メーカーはオフィスコンピュータに独自の事務処理パッケージを搭載していたので、Σ計画への関心は低かったのである。

参照: 藤原博文「シグマ計画 」
http://www.pro.or.jp/~fuji/mybooks/okite/okite.9.1.html
千葉利宏「シグマ計画にみる国家IT戦略失敗の歴史 」2007
http://www.miraikeikaku-shimbun.com/article/13198069.html

1992年(~2001年)RWC(リアルワールドコンピューティング、4次元コンピュータ)

産業技術総合研究所に実世界知能推進センター(RWIセンター)、コンピュータメーカーを中心に、半導体素材メーカーなどをメンバーとする技術研究組合新情報処理開発機構(RWCP )を設置、RWIセンターとRWCPが共同研究する。通産省からRWCPへ委託し、その一部を国内外の大学に再委託する体制である。
次世代の情報処理技術の基盤となる、
  実世界知能技術
    マルチモーダル機能:顔や体の特徴認識、画像応答など
    情報ベース:画像情報の計量化・可視化、文書情報の自己組織化など
    自律学習機能:学習ロボット、能動的地図獲得、能動学習など
    理論基盤:記号パターン統合、確率的知識表現など
    適用デバイス:再編成可能型デバイス、スマートピクセルなど
  並列分散コンピューティング技術
    並列分散システム:並列分散サーバ、並列プログラミングなど
    光インターコネクション:大容量データバス用光コネクション、波長多重型光LANなど
    並列応用:物理・統計融合型シミュレーション、並列分散データマイニングなど
などの分野の研究推進を目的とした。
個々のテーマでの成果があったものの、相互関連が少ない多数のテーマが独立で研究されたので、全体としての成果はあいまいさが残った。研究費をばら撒くあけのプロジェクトではないかとの批判もあった。

参照:RWCPメモリアル「RWCプロジェクト10年史 」2004年作成、2014年改訂
http://keima.la.coocan.jp/rwcp/10years/index.html
酒井寿紀「反省のない失敗は繰り返す 」2006
http://www.toskyworld.com/archive/2006/ar0609ohm.htm

1990年以降

1980年代中頃から、大型汎用コンピュータからパソコンへのダウンサイジングが起こり、コンピュータメーカーの構成が変化した。1990年中頃から、インターネットの普及により、関心はコンピュータからネットワークへ移行した。
 また、1990年以降、日本経済が不況に陥ったことから、ばらまき型のプロジェクトは困難になった。
 そのため、以前からのプロジェクトの継続にとどまり、(例外はあるが)大規模な新規プロジェクトは行われなかった。
 1990年代後半以降は、国の政策はメーカー支援から健全な高度情報化社会への対応が主になる。