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電話は発明後数年の間に日本でも実用化された。そして、1899年には全国の電話加入者数が1万人を超えた。
電話をかけるには、2つの電話機の間で通信回線がつながっている必要がある。個々の電話間で回線をつなぐことはできないので、各電話機から電話局と接続し、電話局で一時的に相手と接続する。現在では、送信側が受話器を取り上げて電話番号を押すだけで自動的に相手電話機へ接続される。この方式を自動交換方式あるいはダイアル式というが、日本でこの方式が始まったのは1926年(昭和元年)である。
それまでは、電話をかけるときには、まず電話局の交換手を呼び出し、口頭で相手の電話番号を告げて、人手で接続してもらう方式であった。その交換手を呼び出す方法には、磁石式と共電式がある。磁石式は発信時、電話機についているクランクハンドルを回して発生する電気で交換手に連絡する方式で、1890年代はこの方式であった。共電式は、通話や呼び出しの電源が電話局内から送られており、受話器を取ることで自動的に交換機のランプを点灯させ電話交換手を呼び出す仕組みである。日本では1903年から採用が始まった。
自動電話交換機は、次のように発展してきた。
1952年 ステップ・バイ・ステップ交換機
1955年 クロスバ交換機
1982年 デジタル交換機
参照:安達崇徳「意外と知らない!電話・通信の仕組み 第1回 電話の普及、その背景にある技術とは!?」
http://www.ntt-east.co.jp/business/magazine/nw_system/01/
現在の受話器は、受話器と送話器が一体になっている。ところが、この形式の電話機になったのは、1933年からである。それまでは、送話器が電話機本体に直付けされており、本体とコードで結ばれた受話器のみを手に持って耳に当て、本体の送話器に向かって声を出していた。それで現在でも「受話器」といっているのである。
1890年に東京・横浜で電話が初めて開通したときに「電話加入者人名表」(日本最初の電話帳)が発行されたが、東京で155名、横浜で42名であった。それが、太平洋戦争が起こる1941年まで急速に普及して100万人を超えるまでになった。
戦争が激化すると、軍用や行政用に用いるため「電話供出運動」が行われた。また、戦災により都市部が焼け野原になったため、開戦当時108万台だった電話加入数は、戦争終結時の1945年には、その約半分である46万8千台になで激減した。
戦後、経済の回復成長に伴い電話加入数も急速に増加した。
戦争で日本の電話環境は壊滅状態になった。戦後1940年代後半から1950年代前半にかけて、電話加入の要望は急速に高まったが、設備や要員が間に合わず、加入申込をしても2年以上待たされる状態で、積滞数の増加が慢性化していた。
委託公衆電話
1952年に、電話局側が電話を店舗などに設置させてもらい、管理を依託する「委託公衆電話」を始めた。翌年からは、目立つ赤色にかえられ、これが「赤電話」や「ピンク電話」のはじまりとなった。
呼び出し電話
発信では公衆電話を用いるが、受信では近所の電話を持っている家庭に電話をかけさせ、そこから呼びに来てもらうような仕組みがとられた。それで、呼び出してくれる家の電話番号の後ろに「呼」と書くことが行われた。それを「呼び出し電話」という。
電話の設置場所
呼び出しが広く行われていた頃は、電話は玄関に置かれるのが通常だった。1960年代になり、一般の家庭に置かれるようになると、家族全員がアクセスしやすい居間に置かれるようになった。1990年代になると、親子電話やコードレス電話になり個室に置かれるようになった。その後は携帯電話が普及し、電話は常に身に着けているようになった。
市内電話は、ほとんどがダイヤル式になっていたが、大都市以外では市外電話はほとんど交換手呼び出しによる方式であった。その接続には料金により普通、至急、特急の区別があったが、特急ですら申し込んでから1~2時間待ちが普通という状態であった。
1953年、電電公社は「全国自動即時化」と「積滞解消」を目指す第1次5か年計画を策定、クロスバ自動交換機の導入、加入サービスの向上を急いだ。
1958年 最初のクロスバ市内自動交換機:東京府中局、埼玉蕨局
1959年 最初のクロスバ市外中継交換機:仙台局
1963年 電話加入数500万台を超える。
1967年 全県庁所在地都市相互間の自動即時通話達成
クロスバ交換機とは、縦と横の複数のバーがクロスした構成になっており、ダイヤルされた電話番号のから各バーについている電磁石の磁力により縦と横のバーが接触し、相手に電話をつなぐという仕組みであ る。自動交換機を経由する回線の自動接続が可能になり、市外通話の自動化に適した方式である。
それにも拘わらず、積滞数がほぼ解消し、ダイヤル化率がほぼ100%になったのは、1970年代後半になる。
1969年に押しボタン式電話機の600P電話機が生産され、1970年にプッシュホンの愛称が用いられた。当初はグレー一色で東京、大阪、名古屋の一部で販売。1972年にはホワイト、グリーン、レッドが加わり3色になる。この頃までに急速に普及した。
これまでの電話機は、ダイヤルを回転させる方式であった。1を回せば1個のパルス、2を回せば2個のパルスが発生して、電話番号が伝えられるという仕組みである。
押しボタンにはダイヤルパルス方式とトーンダイヤル方式の二つの方式がある。ダイヤルパルス方式はダイアル回転方式と同様に押したボタンに相当するパルスを発生させる。それに対してトーンダイヤル方式はボタンにより異なる周波数の音で決定する。そのため電話番号を送信する時間が大幅に短縮するが、方式が異なるため、加入者線をトーンダイヤル回線に変更する必要がある。
プッシュホンはトーンダイヤル方式である。ボタンを押すとその周波数に対応した音が聞こえるので「ピッポッパッ」ともいわれた。なお、現在の押しボタン電話機では両方の方式に対応している。
2000年代になるとブロードバンドによる高速通信が月極め料金で利用できるようになった。そのインターネット回線に音声を通すことにより電話すれば、無料で世界中と電話できることになる。それをIP電話という。そのしくみを提供するインターネットプロバイダがあり、プロバイダの提携グループ同士のIP電話を利用した通話は時間に関係なく無料、一般加入電話への通話も全国一律料金というサービスが多い。
IP電話は、通信サービスとしての信頼性について課題があるが、順調に利用者を伸ばしてきた。また、「050」番号から「0AB~J」番号への移行も進んでいる。
事業者別シェア(2009年度第4四半期)では、全体では東西NTTとNTTコミュニケーションズのNTT系で約5割を占め、ソフトバンクBBとKDDIが続いている。「050」番号ではソフトバンクBBとNTTコミュニケーションズ、「0AB~J」番号では東西NTTが7割以上を占めている。
IP電話利用数の推移 出典:総務省「電気通信サービスの加入契約数の状況」 (毎4半期発表)より作成 |