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固定電話の歴史


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19世紀:電話の発明と初期普及

電話の発明

  • 1844年 マンゼッチ(Innocenzo Manzetti)、電話のアイデアを論文発表
  • 1876年 ベル、電話の特許取得
    電話の発明者は一般にグラハム・ベル(Alexander Graham Bell)だとされている。しかし、それ以前にドイツのライス(Johan Philipp Reis)が電話に類似した装置を製作していたとか、米国のグレイ(Elisha Gray)とは特許申請が数時間早かっただけであり、互いに相手の研究を察知していたともいわれている。
    参照:浅瀬野「電話の歴史~電話の発明にまつわるお話~」
        http://asaseno.cool.ne.jp/history.htm
     このような疑念はあるものの、ベルはその後、AT&Tの前身であるベル電話会社を設立するなど、電話の技術の発展や電話の普及に最も貢献したことは間違いない。
  • 1876年 プシュカーシュ・ティワダル、電話交換機を発明
    これによって電話交換が可能となり、電話網が構築できるようになった。
  • 1879年 エジソン、炭素顆粒送話機の特許取得
    このカーボンマイクが、その後の電話機のベースになった。

日本での電話の始まりと普及

  • 1878年 国産電話機を制作(ベル式電話1号機)2台しか作成されなかった
  • 1887年 イギリスからガワーベル電話機を輸入(磁石式)
  • 1890年 東京-横浜で電話サービス開始
  • 1899年 わが国長距離通話のはじめ(東京~大阪間)

電話は発明後数年の間に日本でも実用化された。そして、1899年には全国の電話加入者数が1万人を超えた。

交換手による回線交換

電話をかけるには、2つの電話機の間で通信回線がつながっている必要がある。個々の電話間で回線をつなぐことはできないので、各電話機から電話局と接続し、電話局で一時的に相手と接続する。現在では、送信側が受話器を取り上げて電話番号を押すだけで自動的に相手電話機へ接続される。この方式を自動交換方式あるいはダイアル式というが、日本でこの方式が始まったのは1926年(昭和元年)である。
 それまでは、電話をかけるときには、まず電話局の交換手を呼び出し、口頭で相手の電話番号を告げて、人手で接続してもらう方式であった。その交換手を呼び出す方法には、磁石式と共電式がある。磁石式は発信時、電話機についているクランクハンドルを回して発生する電気で交換手に連絡する方式で、1890年代はこの方式であった。共電式は、通話や呼び出しの電源が電話局内から送られており、受話器を取ることで自動的に交換機のランプを点灯させ電話交換手を呼び出す仕組みである。日本では1903年から採用が始まった。


1900年から1945年(終戦)まで

自動交換方式(ダイヤル電話)

  • 1889年 ストロージャー(Almon B. Strowger)自動電話交換方式の発明
    ストロージャーはカンザスの葬儀屋。自社への電話注文が少ない原因を調べたら、電話交換手のマネージャが商売敵の女房で、交換手はそちらの葬儀屋へつないでいることが判明。それで「人手を介さない回線交換」を思い立ったのだとか。
  • 1926年(大正15・昭和元年)日本初の自動交換方式
    日本では、1923年の関東大震災の復旧をきっかけに自動電話交換機が採用された。その後、逐次自動化されていくが、当初は市内電話に限られており、市外電話にまで採用されるようになったのは戦後かなりたってからである。
      1965年 東京と全国道府県庁所在地相互間のダイヤル市外通話開始
      1979年 全国の電話自動化が100%完了

自動電話交換機は、次のように発展してきた。
  1952年 ステップ・バイ・ステップ交換機
  1955年 クロスバ交換機
  1982年 デジタル交換機
参照:安達崇徳「意外と知らない!電話・通信の仕組み 第1回 電話の普及、その背景にある技術とは!?」
    http://www.ntt-east.co.jp/business/magazine/nw_system/01/

受話器・送信器一体型に

現在の受話器は、受話器と送話器が一体になっている。ところが、この形式の電話機になったのは、1933年からである。それまでは、送話器が電話機本体に直付けされており、本体とコードで結ばれた受話器のみを手に持って耳に当て、本体の送話器に向かって声を出していた。それで現在でも「受話器」といっているのである。


2号自動式壁掛電話機
1927年 (拡大図)

2号自動式卓上電話機
1927年 (拡大図)

3号自動式卓上電話機
1933年 (拡大図)
出典: 丹羽正之「美しき電話機たち (写真図鑑) その1 アンティーク電話」

電話加入者数

1890年に東京・横浜で電話が初めて開通したときに「電話加入者人名表」(日本最初の電話帳)が発行されたが、東京で155名、横浜で42名であった。それが、太平洋戦争が起こる1941年まで急速に普及して100万人を超えるまでになった。
 戦争が激化すると、軍用や行政用に用いるため「電話供出運動」が行われた。また、戦災により都市部が焼け野原になったため、開戦当時108万台だった電話加入数は、戦争終結時の1945年には、その約半分である46万8千台になで激減した。  戦後、経済の回復成長に伴い電話加入数も急速に増加した。


電話加入数の推移
出典:NTT「NTT DIGITAL MUSEUM 電信・電話の歴史年表」より抜粋・作図

終戦から1950年代末まで

1950年代の電話事情

戦争で日本の電話環境は壊滅状態になった。戦後1940年代後半から1950年代前半にかけて、電話加入の要望は急速に高まったが、設備や要員が間に合わず、加入申込をしても2年以上待たされる状態で、積滞数の増加が慢性化していた。
委託公衆電話
 1952年に、電話局側が電話を店舗などに設置させてもらい、管理を依託する「委託公衆電話」を始めた。翌年からは、目立つ赤色にかえられ、これが「赤電話」や「ピンク電話」のはじまりとなった。
呼び出し電話
 発信では公衆電話を用いるが、受信では近所の電話を持っている家庭に電話をかけさせ、そこから呼びに来てもらうような仕組みがとられた。それで、呼び出してくれる家の電話番号の後ろに「呼」と書くことが行われた。それを「呼び出し電話」という。

電話の設置場所
 呼び出しが広く行われていた頃は、電話は玄関に置かれるのが通常だった。1960年代になり、一般の家庭に置かれるようになると、家族全員がアクセスしやすい居間に置かれるようになった。1990年代になると、親子電話やコードレス電話になり個室に置かれるようになった。その後は携帯電話が普及し、電話は常に身に着けているようになった。

市内電話は、ほとんどがダイヤル式になっていたが、大都市以外では市外電話はほとんど交換手呼び出しによる方式であった。その接続には料金により普通、至急、特急の区別があったが、特急ですら申し込んでから1~2時間待ちが普通という状態であった。

1953年、電電公社は「全国自動即時化」と「積滞解消」を目指す第1次5か年計画を策定、クロスバ自動交換機の導入、加入サービスの向上を急いだ。
 1958年 最初のクロスバ市内自動交換機:東京府中局、埼玉蕨局
 1959年 最初のクロスバ市外中継交換機:仙台局
 1963年 電話加入数500万台を超える。  1967年 全県庁所在地都市相互間の自動即時通話達成

クロスバ交換機とは、縦と横の複数のバーがクロスした構成になっており、ダイヤルされた電話番号のから各バーについている電磁石の磁力により縦と横のバーが接触し、相手に電話をつなぐという仕組みであ る。自動交換機を経由する回線の自動接続が可能になり、市外通話の自動化に適した方式である。

それにも拘わらず、積滞数がほぼ解消し、ダイヤル化率がほぼ100%になったのは、1970年代後半になる。


加入数、積滞数、ダイヤル化率の推移(1955~1978) (拡大図)
出典:
NTT「NTT技術資料館 技術革新と多様化の時代(1970年代から)」

用途別カラー電話機

  • 1950年 4号自動式卓上電話機(黒電話)
    一般用電話機。需要増加に応じて大量生産された。1962年には600形電話機となり、完成された電話機といわれた。家庭電話機のことを「黒電話」といっていたが、1971年からは、ホワイト、グレー、グリーンの3色カラー化も始まった。
  • 1953年 4号自動式ボックス公衆電話機(青電話)
    10円硬貨を用いた公衆電話。話し中でも最低の10円がとられるなど不評で、赤電話にかわる。
  • 1955年 5号自動式ボックス公衆電話機(赤電話)
    送受話機を戻せば、フックレバーとの連動により料金は返却される仕組み。以後、公衆電話機はすべてこの料金前納式となる。
  • 1959年 特殊簡易公衆電話(ピンク電話) 一般加入電話を公衆電話としても利用できるようにしたもの。人の出入りの多い場所に設置して、利用した料金を設置者に支払う方式

1960年代

プッシュホン

  • 1964年 Western Electric、トーンダイヤル方式電話機開発。AT&Tサービス開始
  • 1969年 日本で600P電話機によるプッシュホンサービス開始

1969年に押しボタン式電話機の600P電話機が生産され、1970年にプッシュホンの愛称が用いられた。当初はグレー一色で東京、大阪、名古屋の一部で販売。1972年にはホワイト、グリーン、レッドが加わり3色になる。この頃までに急速に普及した。

これまでの電話機は、ダイヤルを回転させる方式であった。1を回せば1個のパルス、2を回せば2個のパルスが発生して、電話番号が伝えられるという仕組みである。
 押しボタンにはダイヤルパルス方式とトーンダイヤル方式の二つの方式がある。ダイヤルパルス方式はダイアル回転方式と同様に押したボタンに相当するパルスを発生させる。それに対してトーンダイヤル方式はボタンにより異なる周波数の音で決定する。そのため電話番号を送信する時間が大幅に短縮するが、方式が異なるため、加入者線をトーンダイヤル回線に変更する必要がある。
 プッシュホンはトーンダイヤル方式である。ボタンを押すとその周波数に対応した音が聞こえるので「ピッポッパッ」ともいわれた。なお、現在の押しボタン電話機では両方の方式に対応している。


1970年代

電話の多機能化が進む

  • 1970年 キャッチホンサービス開始
  • 1970年 電電公社、テレビ会議サービスの商用実験
    1984年 テレビ会議システムのサービス開始
  • 1970年 DRESS、DIALS開始
  • 1971年 DEMOS開始
    NTTは、プッシュホンやトーンダイアルを利用して、公衆回線による計算サービスを開始した。
  • 1973年 電話ファックスサービス開始
  • 1975年 国際ダイヤル通話開始

1980年代

コードレス電話(親子電話)

  • 1970年 大阪万博に出品
  • 1979年 電電公社からレンタル提供
  • 1987年 コードレス電話機の販売自由化
  • 2006年 デジタル化
    家庭内での親機と子機の間を無線で接続。1980年代から1990年代をとおして、家庭用電話として一般的になった。見方によっては、この子機が独立して、屋外でも利用できるようになったのが携帯電話だともいえる。

1990年代

携帯電話

  • 1979年 自動車電話開始
  • 1985年 ショルダーホン開始
  • 1987年 携帯電話開始
  • 1995年 PHS開始
    携帯電話は、急速な普及をして、2000年には加入者数が固定電話を追い越した。また、携帯電話は電話というより携帯情報機器すなわち「ケータイ」として認識するほうが適切である。それで、別ページ「携帯電話の歴史」で取り扱う。

2000年代

IP電話

2000年代になるとブロードバンドによる高速通信が月極め料金で利用できるようになった。そのインターネット回線に音声を通すことにより電話すれば、無料で世界中と電話できることになる。それをIP電話という。そのしくみを提供するインターネットプロバイダがあり、プロバイダの提携グループ同士のIP電話を利用した通話は時間に関係なく無料、一般加入電話への通話も全国一律料金というサービスが多い。

  • 2001年 ソフトバンク、ブロードバンド電話事業「BB Phone」発表
  • 2002年 総務省、IP電話に専用番号「050」を設定
  • 2002年 多数のIP電話サービスプロバイダ出現
    ケイ・オプティコム、アイピートーク、ソフトバンク、フュージョン・コミュニケーションズ、NTT各社など。
  • 2003年 プロバイダ間の提携活発
  • 2003年 各社、IP電話と固定電話や携帯電話との接続サービス開始
  • 2004年 東西NTT、「0AB~J」番号を利用したIP電話「ひかり電話」開始
    「0AB~J」番号とは「03-xxxx-xxxx」などの一般的な固定電話の番号のこと。
    IP電話網は、従来は一般加入電話と異なる電話網であるとして独自の「050」で始まる番号が割り当てられてきたが、回線設備や管理に関する条件を満たせば、「0AB~J」番号が使えることになった。このほうが、なじみが深いことから人気があり、次第に「0AB~J」が増大している。

IP電話は、通信サービスとしての信頼性について課題があるが、順調に利用者を伸ばしてきた。また、「050」番号から「0AB~J」番号への移行も進んでいる。
 事業者別シェア(2009年度第4四半期)では、全体では東西NTTとNTTコミュニケーションズのNTT系で約5割を占め、ソフトバンクBBとKDDIが続いている。「050」番号ではソフトバンクBBとNTTコミュニケーションズ、「0AB~J」番号では東西NTTが7割以上を占めている。


IP電話利用数の推移
出典:総務省「電気通信サービスの加入契約数の状況」
(毎4半期発表)より作成